今年も極寒!種が少しだけある人には気持ち悪く。
「隠れ家」
友人に投げてしまった言葉は、その人を示している言葉ではない。
それなのに、同義でないはずの言葉をその人を示す言葉かのように
言ってしまった行為は、友人という言葉が持っている範囲を貶めて、
幾つもの表情を察してくれていたあなたの絹の織り目でしかなかった。
その瞬間、私はあなたを見ていたのではなく、私が思い出す罪悪感を見ていた。
その印象は、どのように発言すれば、私が私に負い目を感じるかを露わにした。
あなたを拘り、捉える事で、どんな姿の影であれば、隠れられるかを画策して、
あなたの友情に甘えたのだ。
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「約束をしない安心」
約束とは、希望を未来に見据えようとする肉体由来の感情が、
約束を取り付けた日の想いを救う為に維持している未知である。
約束とは、守る事を目的としているのではなく、お互いの意思の継続であろう。
海は太陽の光を迎える。
それは波を有する生命の意識が発芽してゆく事を
肯定され続けている宇宙のリズム。
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「いつもの歩幅をわざとらしく」
今日は、いつも意識出来ないままこぼれてしまっていた
笑い方を変えてみよう。
今日は、いつも意識出来ないままこぼれてしまっていた
愚痴を水に流してみよう。
今日は、いつも意識出来ないままこぼれてしまっていた
癖のついた動きを変えてみよう。
「今の俺、とっても冷静だったかもしれない」と
やっぱり冷静さに欠けた興奮が沸き止まない私に向けて。
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「幕開け」
イエスが聞いた声。イエスの行動。その意味。
彼が聞いた声は究極の声では無い。
まだ声と言う形がある神の声。
でもその必要はあった。
結果としてイエスは世界を新約に動かす事に成功する。
もし彼の聞いた声が究極の神なら死をも求めなかったろう。
それは集合の流れ。
死をポジティブに変容させる為にあの時点で
まだ完璧で無い言葉ある神の声に狭める必要があった。
後世の覚醒者が言葉の無い神に浮かんで居られるよう。
伝わってるだろうか?
人の意識は掘り下げにより無我の神へと向かう事ができる。
イエスの時代、
イエスが意識の先を受け入れた事により、
死は恐怖を無くしてゆき、後世の覚醒者は
人前で先だって死に明るさを添える役目をせずに済んだのだ。
そういう意味でイエスは完璧に時代の神の声を聞き、
無我へのバトンを渡した。
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「満足」
私は何も付け足そうとは思って無いのだけれど、
あなたが私を見ている間だけでも、その言葉が無くなるまでは
その言葉に近づく努力を少しずつでもしようと思う。
私があなたの言葉に近づく努力は、
少しもあなたの期待通りでは無いかもしれない。
でもあなたが私を見つけて言うなら。
きっとあなたは私を見たくない世界に居るのかもしれない。
それはきっと「ありのまま」のわたし
と言うあなたの心に浮かんだ影を見たくない世界。
私はあなたを見ようとして世界に居る訳では無いけれど、
私はあなたを見たくない世界には居ない。
満足しているから
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「同化」
「今ここ」とは魂が心と合致すること。
感情と言う、思考から発生する個人だったはずの心の波と
魂と言う、懐かしい故郷が融合すること。
そのスイッチが入った瞬間、
どこかに行っていた魂が私の中に戻ってきた、と感ずる。
それはいつも待っていた神様が座りやすい心になったこと。
何故か人の言葉も自分の色眼鏡でなく当たり前のように染み込み、
何を返せばよいのかも当たり前のように湧き上がって。
輪廻はその安堵感からちょっとはみ出た願望に近い迷い。
だから何処に行かなくてもいいと思える「今ここ」に居る実感を。
誰もがひとつの生を終える度にそこへ戻っているのに
「今ここ」よりも最上があると勘違いしてしまう。
今の私だけでない感じ、種々の感情への同調、
実はそれを何処かで解っていた立ち返り。
一期の私から幾多の名の違う私が居たこと、そのラインから湧き上がる魂の場。
掃けなかった私一人分の悩みは意味を無くす。
知りたいことはもう何度も知っていたことだと、繰り返さない為の記憶の復活。
永久の安住が隠された松果体。
それは原初からの魂が続いていた事を思い出すこと。
楽園から逃げ出した「私」が味わう獲物を追いかけて
「今ここ」から離れたりしないこと。
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「目線」
具体的な想像。
有り得る想像。
「私達は〜」と言う括りが織り成す王者意識は何によってか。
人が世界の支配者ならば雨風を鎮めるどころか、
心の波もなだらかにできようもの。
蟻は人差し指の悪戯にさして神のような高貴さを感じずに
ただの土砂崩れと諦めるだろう。
貝はその実を食べられるなどと、
こじ開けられ噛み砕かれている間でさえ
客観視できるだろうか?
支配を強く意識する者だけが
「支配している」と勝手に把握する心理。
その情緒に留まらなければならないのは何故か?
私は餌やりの立場にそびえようとする者が誰であろうと
変わらず魚は泳ぎ回るだろうと思う。
魚眼には人の顔が見えているか。言葉の響きが聞こえているか。
もし全ての魚がイルカのように答える行為を持つならば、
もはや誰も支配者では無い。
餌が命だと怯える者がただひとりで居る事を
どこかで忘れようと迷っているだけの気がする。
対の無い世界の一歩手前でもし、対を求めるなら、
対となって答えてくれた者が私やあなた自身より
神の自由さを持っていやしないだろうか?
答えてくれたと言う事はつまり、
あなたの願い自身となって
あなたを飲み込んだに等しいのだから。
向こうの自我に拮抗して押し込んだ意地以外では
全て器として負けている。
対の自我に勝つことはその対を突き破るほど狭い。
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「笑顔になって光」
みんな、目の前が忙しくて、
見る余裕が持てないけれど、
肌色に染まったオブラートの中、光を包んでる。
生まれたての笑顔は光。
大きくなって、泥がついたら、
光ってないように見えるけど、
いつまででもほんとは、輝いてる。
どんな時だって踊り方を見ているよ。
君の動きで、曇りも光も変わるから。
オブラートが剥がれる時、
君は何処にいるだろう。まだこの世界かな。
それとも土から離れる時が最初かな。
その時、笑顔になっていれば、そのままで天国なんだ。
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「是在れ誕生」
みな二度以上生まれて来た。
在るの世の大いなる存在より
そしてこの得たり捨て去る地上へと。
言葉と共に
善と悪とを教えられ
言葉を超えたところより
善と悪の二分から解放される。
愛と言えて
慈悲と重なる壁無き光明に沿って
是の地上を園と思えるように
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「観照」
心は感情の事ではない。
心は感情、情緒を入れる器だ。
「生きよう、死にたい、良く見せたい、悪いところは見せたくないし見たくない」とする者は
感情の真っ只中にあり、 クッキーを手にとってビター味であっても、ミルク味であっても、
それを味わえるような生きようとも死のうともしない者が楽園だ。
色鮮やかで多種多様な味わいのクッキーを、
何にもないまっさらなところから、それを摘まんで焦らず急がずじっくりと噛んでいる。
安心して欲しい。
何もないところには何もない訳じゃない。「味わう余裕」が居る。
それがほんとうの自分だ。
ほんとうの自分に癖はあるか。いや、全くないばかりか、おそらく皆、同じところだろう。
それをカミという。
神が一歩ひいたところより、それぞれの味を楽しんでいる。
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「法則」
法則がある。
その法則とは、いつどこにおいても例外のないもの。
少なくとも私にとっては、と言っておこう。
世界の事を「ドッジボールだ」と言う者が居れば、「いや、ベースボールだ」と言う者も居る。
自分が生きてゆく為に誰かを排除をするのか、それとも誰かと協力するのか。
あなたにとって世界はドッジボールかベースボールか、またはその両方か。
ここまではまだ最初の思案の半歩でしかない。
そしてそのうち、このように言う者が必ず出てくる。
世界が何であれ、その試合を放棄しようではありませんか、と。
ここからが法則の話。いつもその法則は適用される。
それがドッジボールでもベースボールでもいい。
だが、試合を辞めようと誰かに薦める事は、そこでずっと自分が辞めれないという事態を招く。
もし、去るのが自分の正解だと感じたなら、もうそこに声を掛ける相手は居ないのだ。
もし、誰かが君と一緒に辞めるのを待つなら、結局、君は1人残らず辞めるのを待つだろう。
そして、それは果てしない。
気にしなくていいんだ。
もし、君やあなたが世界がドッジボールやベースボールだった事さえ、
心に残す気が無いなら、黙って自分だけ抜ければいい。
同じ役割を果たす誰かは必ずその役割を欲する誰かに適性を見つけられてしまうのだから。
残す世界に対して、自分が信じてしまった世界に対して、何も案ずる事はない。
誰もが去る時は「各自」なのだ。
試合が途中で終わる事もなければ、試合がいつ終わるかもわからないのだから。
人は必ず自分のしたい事を人にもさせたがる。だがそれを気にしてるうちは、
いつまで経っても、そこから抜けれない。
禁煙者は言う。お前も煙草を止めたらいいのに、と。
私はやめようと思ったら道連れを探さずに黙ってそうするさ。
誰かの煙草の煙を気にせずにね。
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「解散」
あなたは点を見つめている、あるいは点を空想しているとしよう。
その点はどこにある点か?無機質上の一点か、それとも有機質上の一点か。
まだ、点としか見ないうちは、あなたも落ち着いている。
さぁ、その点は何だったのか。それが判明するまで後ろに下がってみようか。
それは蠅の足先に記されたマジックだった。
それは愛犬の鼻先に記されたマジックだった。
それは指輪の宝石に記されたマジックだった。
あなたの落ち着きはそれを視界に収めた途端、波を立てるだろう。
あなたがその点が何だったかを意識した時に。
私は思う。それを風の一点に感じた時より、薄まる幸はなくなると。