これが見抜ければ何もかも道理が解けてしまう。
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人間は本当は解っていた。善悪感や比較を生む二元性や自分だけの眼鏡を
持つ事で、「あたし」と「あんた」に分け隔ててしまうこと。必要と不要が生まれる事。
それまでを顧みて、成功していた事と失敗してしまった事を意識しなくなった時に
悩みは減ってゆく。それは「自分をどうしたいか」という理想を持たなくなったこと。
「ここ」と「そこ」の境界線を見つけられずに、「ここ」と「そこ」に自分を見つけるだろう。
つまり、それは「ここ」も自分ではあるが、「そこ」も自分のように愛でられるということ。
エバは何故、「食べてはならない」と言われていた善悪の知る木の実を食べたのか?
その時、エバに誰かが唆したように書かれているが、実はそうじゃない。エバの心の中に
「私だって女性の幸せくらい欲しいわよ」という思いがあったから。ささやかな可愛い望み。
エバの望みはありきたりだった。ただ「暖かい家庭が欲しい」という誰もが思い描いてしまう
夢を持っていただけだった。そして、エバは自分の幸せを得る為に自分に言い聞かせた。
善悪を知る木の実を口にするその前に。
「もっと自分を生きていたい。生きていたから、私は、私のこれからを正当化する。
だから、食べていい。私はもう少し私自身で居る事を叶える為に、私の正義を持とう。
私は私を生かす為に、食べ物を見つけよう。私は子供を持つ事で生きがいにしよう。
私はまだ、私自身で居てもいいはず。私は私を楽しもう。だから、アダムを夫にする。」
エバは自分の夢を見ようとしただけ。好きな夢を追いかけられる今の若者と同じように。
自分がやりかった事を遂行するには必ずリスクがある。地上の世界は競争がある世界。
自分というものを維持する為には、動物だって殺される事もある。誰かが必ず消えてゆく。
そこまでエバは意識出来ていたかは解らない。だが、エバの幸せはありきたりだった。
エデンの園には、中央に善悪を知る木があった。自意識(目が開いて)に目覚めてしまい、
自分を維持する為に、自分の肉体や夢を維持する為に奔走するというのは、そういうこと。
アダムとエバは食料を得る為にあくせくと働いたかもしれない。あちらこちらを詮索して。
それが、隠れて逃げ回っていたということ。自分を延ばそうとしなければ、いいだけなのに。
でも、それで良かった。私だってあくせくしながらも楽しめている。皆さんもそうでしょう?
でも、いつかはあくせくしなくても楽しめるように。自分で楽しめないものを見つけないように。
自分で楽しめるものを狭めないように。思い上がりが無くなったら全部が楽しくなるように。
━−━−━−━−━−━−━−━−━−━ by 対峙する世界から一元化へ。
アメン・ラーからの贈り物。
それは私達も彼と同じ気持ちになれるという事。
創世記 第6章1節〜3節
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さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、
人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。
「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」
こうして、人の一生は百二十年となった。
↓ これを本当の意味に変えるとこういう文章になります。
さて、地上に人が増え始め、心の柔らかい人達も生まれた。霊界の者達は、
そのような人達の心が美しいのを見て、おのおの選んだ者を霊界に呼んだ(妻にした)。
心の中心は囁いた。(主は言われた。)
「霊は肉体(人)の中に永久にとどまるべきではない。
(何故なら、肉体の世界に居ても、心を美しく保てる人は少ないから。
心が疲れて年老いるから。誰もが柔軟な子供のようには居れないから)
以前、人として地上に居た者でも、霊界では誰もが神の子なれるのだから。
そんな理由から、それぞれの心の中では、肉体の人生がもっと短くなればいい
という想いが湧き上がるようになり、自分がいつ去るかについても実現化された。
━−━−━−━−━−━−━−━−━−━ by 対峙する世界から一元化へ。
自作の詩を晒します。楽園三部作。
痛かったらゴメンね。俺は謝らないよ。
一つ目の詩のタイトルは「手紙」。
※ これを読んでくれた人皆さんに宛てた手紙と受け取って下さい。
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(どなたかの意識に対して)
そうなんですよ。自分のイメージに寸分も違わぬ要求をしてしまうと、
そこから楽園は消えてしまう。
これは自分にも心当たりがあったからこそ、今、このように感じられるんです。
それと、旧約聖書の創世記にある「善悪を知る木の実を食べてはならない。」
という神様からの言葉。 これ、本当に神様からのメッセージだと思ってますか。
実のところはですね、アダムとイブのお二人が、 心の奥底で
「ありのままを受け入れなかった瞬間から、不幸が想像される。」と
既に解っていたから、 その様に心の声として聞こえてきたんだと思いますよ。
善悪という短い言葉に一体、どれ位の意味合いが含まれていたかと言いますと、
「上下」、「白黒」、「正誤」、「数字」、「順番」、「時間」、「優劣」、
「好み」、「期待」、「理想」等、 etc..
ありとあらゆる意味合いが含まれているんです。それを持つようになったら、
ゆったりとした気持ちが逃げてしまう事を本当はみんな解ってたはずなんです。
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二つ目の詩のタイトルは「楽園とは・・・」になります。
※ 旧約聖書のエデンの楽園の意味を自分なりに解釈してみました。
楽園とはどのような心持ちか、どのような気持ちを持てば楽園となるか。
この点を説明しなければ片手落ちになってしまうだろう。今からそれを説明する。
私は法則に則り、それを説明する。もし、自分の気持ちが穏やかでなくなった場合、
どうかこれらの言葉を思い出し、再び心の自由を取り戻すきっかけにして欲しい。
気持ちが楽園のようになるとは、物事を善悪の観点で捉えなくなるという事である。
ここで踏み誤らないで頂きたい事は、善悪という言葉が抱かせる意味合いである。
神が云わんとした善悪とは、善い行いと悪い行いという意味だけではない。
善悪という言葉の中に あらゆる意味合いが込められている。
それは例えば、「今より昔が良かった」と落胆すること、 これも
「昔を善とし、現在を受け入れたがらない悲観」であろう。
そして、それは現在においても常に責任を孕んでいる。
現時点で何かを選択すること、
それはその決断を善とした対象への保障のない信頼である。
だが、人は結果により、 信頼してしまった決断を自分以外へと責任転嫁する。
もし、現在に満足していないとするならば、その原因は自分が持っていたのである。
そして不満が起きる芽を誰かではなく、自分の気持ちの中に見つける必要がある。
全ての気掛かりから解き放たれれば、気持ちは楽園へと変わる。
これは何も気にするな、誰の事もいたわるな、という意味ではない。
何かを肉体の観点で見た時、それは不幸となるが、霊の観点で見れば通過点となる。
誰かに協力にして、その成果が期待通りにならなかった場合、
結果を事前に抱くと落胆に繋がるが、 もし、「最善だと思っていた方法で
成果が得られない事がわかった」という風に前向きに 受け入れる気持ちが
持てれば、他の方法を考えてみようという気にもなるし、
ベストは尽くしたという諦めも尽くだろう。
鹿は自分の傷を見つけるなり、涙を流さずに傷口を舐めて癒やそうとするだろう。
助けようと思ったあなたは鹿の目だ。思いやりの衝動が湧き上がっていたのなら、
それでいいのだ。
鹿は癒やそうとした傷口が化膿しても、涙を流さず、経過を受け入れるだろう。
もし、手を添えようとして上手くいかなかったならば、そう成るように成ったのだ。
あなたは最善を尽くした結果に悲しむ事はない。その流れは神の計画だったのだ。
あなたは「そういう事だった」とありのままを受け入れられれば、自責から解放される。
何かが起こり、後から「あの時、こうすれば良かった」と悔やむのは、
楽園を遠ざける心理である。
もし、その時、そう思えなかったのであれば、それは計画である。
その事をまず受け入れ、何か願望があるならば、
そこからスタートする事は自由である。
だが、同じように結果に自らの理想を完璧に重ねようとするならば、
また楽園は遠ざかる。 何もかも受け入れる場面を自らが察知しなければならない。
それは不服が生じた時がその時である。
センタリングとは、一瞬一瞬を捉えながらも、
常にそれを受け入れ続けている状態である。
こうあるべきだと抱いた瞬間、意識はその対象を理想通りにしようとする。
引き擦られた意識はそれが理想に近づかないあいだ、ずっと楽園を失う事となる。
私は今まで出会った記憶している限りの人を受け入れるつもりだ。
喧嘩したまま会えないで居る人も含め。
それは死後の世界においてのみでなく、
これから地上で再会する事があっても同様に。
かつて私を怒りに導いた人は、何をどのように感じれば、
私が不満を抱くのかを教えてくれた人。
その人は、私の自尊心がどのような心境になった時に
闘おうとするのかを教えてくれた人。
つまり、私が何を嫌ってしまうのか、放棄すべき拘りを教えてくれたのだ。
それこそ、世界に自分以外の誰かが居るように見せてくれるトリックの恩恵であり、
神の計画。
縁があった事に微笑みかけること、
それは相手が自分の影に陽の光を当てる役目だった事に気付き、
素直に認める事で可能となる。
これは、私だけが課せられた宿題ではなく、私を煙たがった人の宿題でもある。
それが相互に作用した時、互いは互いを太陽へと帰還させる架け橋となる。
安堵した心で相手を認めた瞬間、縁は役目を終える。その直後から1人ずつ、
忘れる事が叶うだろう。
楽園とは、ありのままを受け入れた瞬間から地上において
その言葉通りの居心地を成し、その丸みのうちに忘れ去るのを悲しみとしない。
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三つ目の詩のタイトルは「楽園の仕組み」
※ 楽園の心境になれる者となれない者の補足説明をしました。
全ての瞬間に納得するようになり、観照の状態に入ると、全てに楽しみが見つかる。
そこに苦しみはない。
汗をかこうが、工夫しようが、それも楽となる。これが基準だ。
もはや荷は降ろされ、帰郷した。
楽園は誰の承諾も必要としない。ただ、あなたがそれを自分に赦せればいい。
だから、人を傷つけた者より、傷つけられた者の方が楽なのだ。
荷物を背負ってきた者は恐れずに楽園の瞬間に入っていい。
あなたが誰かを鬼に見る時、あなたの心はまだ楽園ではない。
あなたが誰も鬼としない時、誰かがあなたに自分の荷物を持たせるなら、
あなたがそれを忘れても、 いずれ、その者があなたを思い出し、楽園を
前に戸惑うだろう。苦々しく思うはずだ。全ては理にかなっている。
だが、安心して欲しい。
全ての者は誰かの承諾を必要としない。ただ、自分が自分を赦すのみ。
全ての瞬間を受け入れたなら、その者は楽園の資格者だ。
その者は、もはや過去の誰かに非ず。それを責める者は楽園者に居ない。